私がロードスターを購入したのは90年12月であった。友人の青いロードスターに乗ってみてその操作性の良さに感心し、通勤車としてちょうどいいと思って購入したのである。はじめはシルバーを想定して店を訪れたのだったが、発売1周年記念の緑のロードスターのポスターに一発でまいってしまってVスペシャルを購入した。
以来ロードスターにはべたぼれで、一度も手放そうと思ったことはなかった。デザインに惚れて買った口なので、「形の美しさ」は当然気になるのだが、7年を経た今もそれが「古くなった」と感じたことはない。
だが、今そのデザインは変更されることになった。それは本当に意味があることなのだろうか。
好みの問題もあるのかもしれないが、次期ロードスターのデザイン(と一般に噂されているもの)には、非常に機械的・無機的なイメージがある。生き物を連想するような今のロードスターのデザインとはかけ離れている。初代ロードスターはデザイナーが実物大モックアップを手で削りながら研ぎ出したデザインだと聞いているが、次期ロードスターはデザインにそれほどの愛着を注いだものなのだろうか。見た目からは私はそれを感じられない。
第一、なぜにそのような変更をするのだろうか。それにはなんの意味があるのだろうか。
ロードスターには不思議な「オーラ」がある。それは「一人の男の入魂の作品」というイメージの持つオーラである。マツダのプレスリリースや雑誌の記事から発せられたものであるが、事実を全く含んでいないわけではないだろう。男の名前は平井一夫という。
平井は子供時代にオープンカーに乗ったことがあり、一生に一度はそれを作ってみたいと思ったそうな。天の巡り合わせでチャンスが回ってきてロードスターの主査となった彼は、情熱を注ぎ込んでロードスターを作り上げた。すべてのマネージをしたのが平井であり、ボディデザインをしたのが佐藤(これもまた変わった人物)、そしてベーシックな足まわりのチューニングを行ったのが立花と言われる。
いずれにせよ、ロードスターは一人の男の情熱の産物であった。デザインにまでそれは反映されていると言っていいだろう。
そのような「カタチ」こそがロードスターの本質であり、それを持ち続けるがゆえのロードスターだと私は思っている。そのようなデザインは、本来、変更する必要がないのである。芸術家の1作品のように、そのものであることに意味があるのであり、バージョンアップすることには意味がないからである。
そのような意味でのロードスターの「寿命」は、8年であった、ということなのであろう。9年目にデザインは総変更される。新しいデザインは「オープン2シーターである」という点を除いては、現ロードスターと共通点はない。「似たデザイン」などには意味がない。連続性は完全に失われたのだ。
ポルシェはそれを実に30年近く続けた。空力的には見合わないヘッドランプとウインドウ・ドア部分のデザインを保ち続け、そのことにより「911」という神話を保ち続けた。あらゆる改良・変更がなされ続けながらも、それが「911」であり続けたのは、デザインの一貫性であった。そのことの意味を、意図的か否かは知らず、ポルシェは証明し続けた。
マツダはこれに7年間しか意義を見いだすことが出来なかった。ベーシックデザインの変更は「ロードスターとはなんなのか」を、根本的に変更してしまうことだと、マツダは真に理解していたのだろうか。
そして、その変更が、十分にユーザーを納得させ得るものだと考えたのであろうか。
マツダはロードスターをマスプロな「オープンカータイプの一つ」というレベルに落としながら、一方で新味を狙ったのであり、これは国産車ではあたりまえの「次機種投入作戦」である。それはメーカーの販売戦略として成功するのだろうか、失敗するのだろうか。蓋を開けてみなければわからない。
今わかるのは、ある部分のユーザーはこれで離れていく、ということであろう。私は「新ロードスター」は買わないだろう。自分がそれを持つだけの「価値」を見いだせないから。ただのマスプロ製品には興味がないから。なにかしら「人が作った」という気持ちの見えるものでないと、所有することに愉しみを見いだせないから。
そうしていま触手が伸びる。もしも、もしも現ロードスターを手放すなら、次にあるのはロータスエリーゼしかあるまい。:)