October 30, 2006

「衣裳・小道具で見る歌舞伎展」日本橋三越

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日本橋三越新館7Fで開催されいる。

展示されている衣裳はどれもみなきらびやかで、とても面白い。江戸の粋が表現されていると思う。
これらは衣裳であって、普通の着物ではない。舞台のための道具だ。だからあちこちこすれていたり、しかけがしてあったりするが、それもまた面白い。道具として経て来た苦労の歴史や、それを繕い、補修し、道具として完動させる裏方の工夫や着想がいろいろとみえて感心した。

伝統文化を支える舞台テクノロジーと心意気を見た気がした。面白い展観である。

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「楽茶碗 赤と黒の芸術」三井記念美術館

三井記念美術館一周年記念で開かれている展覧会である。初期の楽がまとまってみられそうなので行って来た。

よい展覧であった。行く価値があった。長次郎を中心とした初期楽のよいものがたくさん集まっていた。無一物も、大黒も、今回初めて観た。
それらの茶碗は、どれも、それぞれの形の中で、究極まで形を追求されていて、緊張感がある。極められている、という感じがする。造形の世界で形にどこまでもこだわるのはとても重要なことだと、再認識した。

そして村雲があった。つい昨日、樂美術館で雨雲を観たのだった。続けて観られるとは、なんと贅沢なことよ。
村雲は雨雲より少し大きい。そして雨雲よりカセて、わびた感じがする。
雨雲、村雲の好きな私は、会場のソファに座って、ずっと村雲を眺めていた。

次はまたいつ目にできるやら。しばしの別れ。。

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「伴大納言絵巻展」出光美術館

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学生時代には日本史などあまり気にしたことがなかった。しかしこういうものを見ると、その周辺だけはリサーチして詳しくなるものである。

国宝「伴大納言絵巻(あるいは絵詞)」は866年に起きた応天門の変を題材とした絵巻物である。事件についてはwikipediaの関連項目にリンクしておく。

三巻ある絵巻は、会期中にそれぞれの巻のオリジナルと、複製が時期をずらして展観されることになっている。現在は下巻が展示され、それ以外は複製である(といっても、ガラス越しに見ている分にはオリジナルと見分けはつかない)。

私はモノキュラーを持って行ったが、正解だった。拡大するとそれぞれの人物の細かい表情がわかる。それがとてもビビッドなのだ。表情の雰囲気は少し鳥獣戯画図に似ているかもしれない。昔人たちの絵画センスの洗練がまざまざと表れている。細密な筆の運びで描き表された、様々に描き分けられた人物の表情がとても面白い。

前回の風神雷神図の時と同じく、今回の展観も啓蒙的な解説が詳しくなされており、とてもわかりやすい展観であった。お薦めである。

Posted by sheemer at 06:56 PM →Mail Me smmini-183-01.jpg

「京焼 - みやこの意匠と技 - 」京都国立博物館

「京焼 - みやこの意匠と技 - 」という展覧会を観て来た。開催は京都国立博物館

京焼を、私は必ずしも好きではないのだが、歴史を追って包括的に展示しているようだったので、知識の整理といった感じで観て来た。

ざくっと言ってしまえば、京焼は古いものを観ておけばよい、といった感じがした。つまるところ仁清と乾山である。江戸時代(の京都)の、粋とけれんをたっぷりと表現したクリエイティビティを感じる。仁清のほうがより絢爛としていて、乾山のほうは、より粋を感じる。遊び人の兄貴、光琳の影響かもしれない。(「お兄ちゃんもっとしっかりしてよ!」と諭したらしい。それで光琳は本気で絵を描き始めた。。)

残念なことに今物は、時代を下ってその粋やけれんが京都から失われて行くにつれて、突き抜けた美しさを失って行ったように見えた。

昔の日本人の美意識は西欧がなんじゃい、という、若冲を観たときと同じような感覚を持った。
(日本語になってないね、この一文は。。)

「昔の」だ。

Posted by sheemer at 12:43 PM →Mail Me smmini-183-01.jpg

「光悦と樂道入」樂美術館

樂三代目である道入(ノンコウ)と、彼と親交の深かった本阿弥光悦の作品の展覧であった。開催は樂美術館

本阿弥光悦が好きである。刀の目利きであり研ぎ師であり、日本三隻と呼ばれる能書家であり、江戸に来いという家康の招き(か命令か)をやんわりと断り、それにより洛北の荒れ地、鷹峯に住まうことを命じられた。彼はそこで仕事を続け、その余儀として茶碗を作った。それが型破り、掟破りの自由闊達さである。そこに惹かれる。

光悦はわずか五碗しかない国宝茶碗(うち3つは中国製の天目、残り二つのうちもう一方は利休所持の志野茶碗「卯花墻」)の一つ、「不二山」を作っている。以前それを観に上諏訪のサンリツ服部美術館へ行った。割れを大胆に金継ぎし、それがデザイン意匠にまで昇華している「雪峯」は畠山記念館で観た。「村雲」は、以前に樂美術館で観た。観たい観たいと思いながら果たせないでいた「乙御前(おとごぜ)」を、今回樂美術館で観ることができた。不定形でアバンギャルドな形。高台はほとんど接地していない。意外に小さい。

彼はとにかく、思い切りがいい。思った形のままに作り、それをどうせ思い通りにはならぬ火の気まぐれにまかせ、あがったものの善し悪しを、目利きの感性で取捨選択したのだろう。観ること、作ること、思い切ることなどが絶妙にバランスしている。陶工ではない、現代から見ればプロのアーティストだ。それを彼が意識していたかどうかは知らないが。

そして「雨雲」も観ることができた。これは「村雲」とペアのような茶碗である。これも意外に小さい。
実は「雨雲」には個人的な思い入れがある。考えてみれば、今回ここには雨雲と、乙御前を観に来たようなものだ。その目的は果たされた。ただじっと眺めて来た。

Posted by sheemer at 12:28 PM →Mail Me smmini-183-01.jpg

October 01, 2006

「エミ・エレオノーラ+ubu他」@1Mile(那覇)

昨晩はタイトルのライブに行ってきた。場所は那覇の「1Mile」(music bar 1Mile:那覇市安里 1-4-18 2F:TEL 098-861-0337 )

今日はなぜか全身が耳のようになっていた。たまにそういう状態になる。周りには知人が結構いたのだが、この状態になると、彼らともほとんど話さなかった。

ライブは、なんと全曲、歌込みの即興である。エミさんは何語でもない歌詞で即興に歌を歌う。とてもいい声だ。そして誰にも似ていない、転びながらするすると歌に付き従うピアノを弾く。
まるでジョークのようだが、テンションがある。即興でものができて行く緊張感。そこに立ち会う者の面白さ。予定調和的によけいなclicheはどこにもない。

これは脳みその洗濯だ。こういう予定調和のどこにもない音楽をたまに聴くと、日々世間で鳴っていて、否応無しに耳に飛び込んでくるコピペ音楽(あるいは音楽のようなにせもの)で汚れた脳みそがきれいになる気がする。

後半に入るとコウサカワタルさんがサロードを弾いて参加した。この北インドの楽器は、もとはubuさん所有のものであったが、縁を得てコウサカさんのものになった。すごくいい楽器だ。コウサカさんにとてもよく合っている。彼のもとで、ますますいい音楽を作り出すことになるのだろう。

ubuさんは、一曲しか弾かなかったが、やはりピアノが上手だ。バックグラウンドがなせる技か、音の芯があって、くっきりとしている。この辺りではあまり見かけないキーボードだ。
彼の今回の演奏の中心の一つはテルミンだった。新型のEtherwaveを最近入手したとのことでそれを使っていたが、まだ音程を探している感じがした。聞けば前の機種よりピッチコントローラーのレンジが広いとのこと。今はそこのところと演奏者の身体の微調整中のようだった。音はすごくいい。
彼のもう一つの道具が、手製の6弦シンセベースだ。これが音域が広い、太い音のでる、強力な楽器だ。

それにホールズさんが一曲はいって、名護辺りで買ったという鳥笛を吹いた。「1本1000円、2本500円?」というのだが、きっちりと音楽になっていた。

頭がクリアになり、いい気分で帰れたライブだった。どうもありがとうございました。

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September 18, 2006

「風神雷神図屏風」出光美術館

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どこかで目にした雷様の絵で「あああれだな」と思い、行くことにした。

会場の出光美術館は入り口付近がリニューアルして雰囲気が違っていて、ちょっと戸惑った。
中に入るとまず目につく俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のところに人だかりができていた。やれやれ、他を見てから戻ってくるか、と先を見ると、そこにも「風神雷神図屏風」があった。そしてその向こう側にもあったのだ!

私はこの「風神雷神図屏風」に複数のバージョンがあることを全く知らなかった。まずは国宝となっている建仁寺所蔵、俵屋宗達の作になるもの、そしてほぼ100年後にその屏風を目にし、それを複製するようにして尾形光琳が描いたもの(国立博物館蔵)、さらにまた100年近く下った江戸末、酒井抱一がその光琳の作を見て描いたもの(出光美術館蔵)。これら三つの風神雷神図屏風が一堂に会するのは歴史上4度目、67年ぶりとのことである。

どれもそれぞれに特徴があるのだが、どれが一番好きかと問われれば、私は光琳作のものを選ぶ。若い時代に遊び人だった彼の「遊び」の心根がでているようで、とてもいい感じがするのだ。観ていると自然に笑いがこみあげてきてしまう。
宗達のものは、保存の状態が今ひとつで、輪郭がぼけてしまっている。これをくっきりと描き出したものを見たいと思った。多分我々が今見ているものとはだいぶ感じが違って見えるのではないかと思う。

それ以外にも、彼らの屏風が梅図や秋草、燕子花などの絵柄で分けられて展示されていたが、どれもすばらしいものだった。特に伝光琳作といわれる紅白梅図屏風(MOA美術館の国宝とは違う)の、デザインの遊びなどに、光琳らしい?、雰囲気を観ることができた。また酒井抱一の草花図(そのうち一つは彼が光琳の風神雷神図屏風の裏側に描いた秋草図の下絵に相当するものである。ちなみに風神雷神図屏風の裏に描かれたものは分割されて別の屏風になり、現在国立博物館で展示中とのこと)は、鈴木其一と並んで美しい。ものの形を正しく普通に描くだけでこれほど美しいのだ、と、先の伊藤若冲プライスコレクションの時に感じたことを、ここでも再確認することになった。

ここに3時間近くもいたのではないだろうか。幸せな気分で、ずっとここにいたいと思うくらいだった。
そのせいか?、スタッフに間違えられてしまった。外国人に間違えられるのはよくあるのだが、学芸員と思われたのは初めてのことであった。

お薦めの展覧会である。

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September 12, 2006

ダイアログ・イン・ザ・ダーク2006

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このイベントを知ったのはmixiの知人を通じてで、2004年のことだった。それから2年、ようやく参加のチャンスが訪れた。

会場では予定の20分前のチームに組み入れられた。8人で一グループとなる。薄暗い部屋に連れて行かれ、そこで白い杖を渡され、アテンドのスタッフに使い方を教えられる。先端から拳二つくらい下の部分を鉛筆のように持って、自分の前をsweepするように使うことで、自分の歩くところがどうなっているかがわかる、と。そして、心の準備をしてから、我々はアテンドに先導されて闇の中へ入っていった。
このイベントは闇を体験するイベントなのだ。真っ暗闇。そこを杖や視覚以外の自分の五感をたよりに進んでいく。そして我々を先導してくれる「アテンド」さんは、視覚障害者なのだ。

イベントの詳細に触れるのは「ネタバレ」的なので、行わないことにする。自分がそこで感じたことを書く。

闇に入ってほどなく、グループのメンバーは親密感、共同感をもつようになる。助け合うようになる。そうしないとうまく進めないのだ。我々のチームではさほどでもなかったと思うが、誰か「仕切り」をするリーダーが自然発生するのかもしれない。
現代の若者の「ノリ」を肌で感じた気がする。現場でさくっと関係性を作る。我々は一種「善意の集団」となって、その感覚を持続させていく。

暗闇だと、なにか音のする方に人は歩くようだ。そうしてグループが一まとまりになって進む。

そして音を聞く。近くの人の言葉や、環境からの音。においを嗅ぐ。空気のにおいや土のにおい。手触りを感じる。手すりの竹や、杖から伝わってくる床や地面の感触。手に触れる水や顔にかかる風の感触。最後には味を確かめることもできる。飲み物を飲むことができるが、その味は? 自分は何を飲んでいるのか?

闇から、少しだけ明るい世界にでてくる。そこでメンバーで語り合う。
暗闇で、私は視覚障害のありさまを、ごくわずかながら実感したのだ。もちろん日々自分の生活の問題として闇と向き合っている視覚障害者の方々の真の視点とは差があるのだと思う。まずはこれを楽しんでいるのだから。この世界は善意?で構成されていると言ってもよい。しかし世間の波はそういうわけではないのだから。

当たり前のことかもしれないが、他人との距離感のダイナミックな変化も感じた。暗闇の中、薄明のミーティングルーム、外の光の世界では、メンバー間の距離感も変わってくる。これは視覚の実験だけでなく人間関係の実験の意味もあるかもしれないと思った。災害時などの人間関係の変化もこれに似たようなものなのかもしれない。

会場を出ると、私は自然に外部の生の音を聴くようになったらしい。まずは、walkman(というかiPod)をイヤフォンで歩きながら聞かなくなった。身の回りの音を聞いていたい、と思ったのだ。それが自動車の騒音であれ、地下鉄のノイズであれ。エレクトロニックなサウンドへの、わずかな忌避感が生まれたかもしれない。

またガラスの向こうの音のない世界が変に感じる。レストランで食事をしながら、周りの会話のノイズは聞こえるのに、ガラス越しに見える木立のとてもきれいな景色から、風の音が聞こえてこない(木々は風に揺れているのに)。そのことがとても奇異に感じられた。

いつまでこの感覚が持続するのかはわからないが、バーチャルからはなれ、五感に戻っている、という実感がある
そして、直接感覚で感じたい、と思う。言葉をなくしてしまいたい。しかし我々は人間であり、そこにあるもの、感覚をすべて言語化するのが人間の性(さが)だ。頭の中が言葉に満ちている。

その状態から抜け出したい、と強く思う。直接感じるようになりたい、と思う。

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September 07, 2006

「Web2.0でビジネスが変わる」神田敏晶

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お会いしたことはないのだが、この人は「得体の知れない人」という感じがしている。他にわかるのは、頭がはじけている人、そしてよい意味で「根っからのメディア人だ」ということだ。彼が自分の視点から、自分が実際に見たものを表現している、と思うからだ。
本書は梅田望夫氏の「web進化論」のcounterpart的な存在だ。前者が「経営者とテッキー」の立場やその関係性の中で書かれているのに対し、本書は「コンシューマーからメディアへ」といった視点で書かれている。「web2.0」というあいまいなものを、視点を変えてとらえ、表現している。
特に第5章あたりでは、著者は自分のフィールドで生き生きとしている感じがする。CGMは我らの世界、という感じだ。
ナチュラル・ボーン・ネット世代が、同世代の他人と家族以上に親密な関係を築いているというのは、言われてみればそうなのだが、新鮮な視点だった。彼らはネットを技術でなく直感で理解している。
彼のビデオレポートをサイトで見たことがあるのだが、本人が「プリミティブでブロークンだ」と言っている英語のインタビューを聞くと、聞くより直感の人だな、という感じがして、本書のバックグラウンドがわかる気がした。
web進化論とペアにして読むと面白い本だ。

202ページにtypoをひとつだけみつけた。

Posted by sheemer at 04:37 AM →Mail Me smmini-183-01.jpg

August 19, 2006

en-Ray【「ぱらいそ」〜媛麗在琉球楽園〜】発売記念ライブ

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沖縄ちゅらサウンズpodcasten-Rayという中国出身のシンガーが出演していた。レコ発ライブがあるとの事。参加メンバーの多彩さに興味を惹かれて、聞きにいく事にした。場所は那覇市久茂地のPARAISOディアマンテスのアルベルト城間さんの店らしい。

第一部開始時の2030頃には60人ほどの入りだった。その後徐々に増えていく。まずen-Ray本人が出てきて短いトークをすると、キーボードの新垣さんを呼ぶ。彼は客席後ろから出てくる。まず一曲。
次に中国から来たという二胡のプレイヤーを呼ぶ、二胡のソロを含め二曲。
さらにアルベルトとパーカッションが出てきて数曲。という風にメンバーが入れ替わりながらいろいろな構成で演奏が進んだ。アルベルトが沖縄の竹のリズム楽器をつかう。すこしよろよろとする。

途中でショートトークが入る。なにか「ろけち」の話をしている。「ロケ地」のことかと思ったら「ロケット基地」のことだった。そこを見学したと。照準は中国に向いている、などなど。
そして「風の歌」が歌われた。エンディングを少し失い気味に前半が終わった。フロアは満席になっている。

後半は、まずギター抱えたアルベルトが出てきて「コンドルは飛んでいく」など数曲を歌った。
彼の生演奏は昨日初めて見たのだが、とても声がいい。声とギターだけがあれば、他に何がなくても平気、という感じだ。生まれながらのシンガーだと思う。
そして、とても男前だ。

出てきたen-Rayはカラオケで一曲歌った。バンドによるライブとは少し客ののりが違う。そしてもとネーネーズの人と振り付けたピンクレディの曲をメドレーで歌った。サントリーのコマーシャル(孫悟空と三蔵法師がピンクレディを歌い踊るアニメ)を歌った事が縁だそうだ。

そして再びディアマンテスメンバーがでてくると、古謝美佐子の曲「ワラビガミ」を歌った。また数曲。
中にディアマンテスの「アスタ・マーニャ」があった。とても美しい曲だが、そのとき、とおくにいるアルベルトの目に涙があるのがみえた。なんの思いか?、感極まったのか?
その後フルメンバーで数曲歌い、アンコールで再び風の歌を歌い、ライブは終わった。

世界のあちこちで、毎晩誰かがこうして歌っている。数十人を相手に、心を込めて。きっと平和はこうして紡がれていくのだろう。
そしてライブの空気は自分に跳ね返る。自分のメンタリティに影響される。自分はなぜそこにいるのか? ライブでそう考えるのも雑念か? そういうことを考えるのも人生か?

Posted by sheemer at 09:41 AM →Mail Me smmini-183-01.jpg