梅田望夫さんのブログで、彼が「最近読んで感動したもの」として触れていた。「『新潮』五月号は書店にはもうないから、村上春樹ファンは図書館で探してでも読む価値あり」と書いてあるので、実際に浦添市図書館まで行って読んでみた。
なぜそこまでして、って? それは私が村上春樹の大ファンだからだ。
本稿は雑誌「新潮」五月号に掲載されたリチャード・パワーズの村上春樹論、「ハルキ・ムラカミ━広域分散━自己鏡像化━地下世界━ニューロサイエンス流━魂シェアリング・ピクチャーショー」という文章に関するものである。
著者はまず「ミラーニューロン」の話を持ち出す。簡単に言うと他者の特定の行動がこちら側の運動領域近辺のニューロンの活動を引き起こすという報告で、他者の運動行為、空間把握、他人の行動の解釈や意味のカテゴリーの組み立てなどの局面で顕著に現われるらしい。
つまりは他者の行為などを観察することで、それと同じ脳活動がこちらの内部に生まれるわけで、他人の脳と自己の脳のマッピングが高次の認知機能レベルで行われており、実際見ることと想像することの間を橋渡しし、他者に共感する神経医学の手がかりとなるのではないか、ということだ。
著者はこれを村上のテーマである「未知にして幻想的なイメージ空間において現実は始まる」ということに重ねあわせる。自己と他者の境界の曖昧化が起こっていて、それは村上のリアリスムである、どこかわからない深いところで自己は他者とつながっている、ということと相似だ、というのだ。
村上がそのことを意識的に捉えているかどうかはわからないが、感覚的な「観」の世界のような気がする。しかし著者はそこにグローバリズム的解釈を持ち込んでおり、そこが本稿の興味深いところである。
私は以前から村上の作品を特徴づけるのはある種の「喪失感」のようなものだ、と書いて来たが、本稿を読んで、その「喪失感」は、自己と他者の曖昧化によって、なくなっていく「統合された私」、自己を失う喪失感のようなものではないかと思うようになった。
村上の作品は、一種「ナショナリティの欠如」したような雰囲気があり、どこの国とも、どこの国の人についてのことともわからない。これを「土地から離れてあらゆる場所で語りかける」とピコ・マイヤーは称しており、そのような普遍的なあり方の背後には、先述のミラーニューロンのような考え方が国や人種に関わらない、もっと根源的な人間のあり方に基づいているからだろうと著者は語っている。それが、村上作品が世界各国で幅広く共感を得て、受け入れられている理由なのだろうと。
またその流れの中に、彼の作品の魅力である「現実からの自由」「統一体としての自己からの解放」「自己と他者は分ちがたく結びついている」といった感じや共感、あらゆる種類の「愛」があるのだろうと。
本稿にいろいろと述べられていることは、全て原著タイトルに現われていると思う。それは「The Global Distributed Self-Mirroring Subterranean Neurological Soul-Sharing Picture Show」であり、村上に関するエッセンスを、文学的に、すべて表現していると思う。
そして「その先」を考える。この村上を越えるのはなにか?