3・辺野古海上基地計画は1966年から

立ち上げた「SACO合意を究明する県民会議」で掘り起こした主な文書と所在地、概要を記しておこう。
ちょっとややこしいが、入手した順に記すことにする。

●収集した文書のリスト


★1・1968年1月30日に米陸軍工兵隊が依頼した調査報告書
      『沖縄・工業用地新都市調査』所在場所・琉球大学付属図書館
                               ・沖縄県議会図書館
      ・浦添の米軍補給基地沖に新たな軍港を1966年に計画し、
      ・68年に修正案を提案している。(右写真の右図) 


★2・1970年1月 "POSSIBLE RELOCATION OF FACILITIES WITHIN OKINAWA"
                         所在場所・沖縄県公文書館
      ・1965年に、沖縄内で新たな軍事空港の立地を検討したが、
      ・中南部は人家が密集していて適地はない。
      ・北部は、地形の起伏が激しく、本部半島の日本軍が作った飛行場を拡張するか、
      ・Kushi-wan を埋めて作るほかはない。

   この★2の文書に記されていた Kushi-wan は、地図にはなく、
   海図には辺野古の海が Kushi-wan と記されていた。この事実から、
   辺野古計画が1965年にスタートしていたことが分かった。
   ここまで分かったところに県民の一人が、次のコピー★3を持ってきてくれた。


★3・1966年 1月17日 "GENERAL DEVELOPMENT PLAN
                  MARINE CORPS AIR FACILITY
                HENOKO, OKINAWA, RYUKYU ISLANDS"
      ・ずばり、海兵隊の辺野古海上基地計画である。
      ・3000Mの滑走路を二本作る計画であった。


★4・1966年12月29日 "MASTER PLAN OF NAVY FACILITIES
                   OKINAWA RYUKYU ISLANDS"
                           所在場所・沖縄県公文書館
      ・海兵隊が計画した辺野古埋立飛行場に隣接して深い大浦湾に軍港を作る。
      ・陸上には、米軍の家族住宅や学校、対岸には弾薬庫をつくるという巨大計画。


★5・1997年9月3日 "SEA BASED FACILITY
               Funtional Analysis and Concept of Operations
               MACS Futenma Relocation" 
               米国・会計検査院の報告書 
左クリックで拡大
                      所在場所・沖縄県・基地対策室



★6・1997年9月29日"DoD Operational Requirement and Concept of Operations
     for MCAS Futenma Relocation, Okinawa, Japan, Final Draft"
    『
日本国沖縄における普天間海兵隊航空基地の移設のための国防総省の
       運用条件及び運用構想(仮訳)最終版』との和訳文書とも存在する。(米海兵隊作成)
                           所在場所・沖縄県総務部基地対策室
       ・今後「97年運用構想」と略する。
       ・この97年運用構想は辺野古の海上基地に必要な機能を分析してまとめた文書である。


●収集した文書から読めること

以上の文書から、事実関係を整理しておこう。

先述の宮城悦二郎先生が、沖縄県立公文書館から探し出した1970年1月に米政府機関が作成した「(米軍基地の)沖縄内移設の可能性」と翻訳される10ページほどの文書(★2)がある。この文書には、(ベトナム戦争の最中であった1965年に、米軍は、「沖縄島にもう一つの飛行場を計画して調査を行った。沖縄島の中南部は人家が密集していて適地はない。北部は地形がきびしいので適地としては本部半島にある日本軍が作った飛行場を拡張するか、久志湾を埋めるしかない」と記されている。久志湾こそサンゴ礁に囲まれた辺野古の海のことである。

の調査をもとに、米海兵隊は、辺野古のリーフを埋めて3000mの滑走路がある飛行場を計画し、1966年1月付けの報告書にまとめた。(★3)滑走路は2本を計画していた。→右図
米海軍は海兵隊の飛行場計画に隣接して大浦湾に軍港を作る計画を同じ年の12月(★4)に作成している。
1998年(平成10年)5月27日の衆議院安全保障委員会で上原康助議員が、米国の会計検査院報告(★5=右図)と国防総省97年運用構想(★6)を示して日本政府の関与を質している。回答は、

――小渕国務大臣:政府といたしましては、米国政府から御指摘のような文書を提示されたことはなくしたがいまして、その内容についても承知をいたしておりません。――

米軍の運用構想を知らなければ、日本政府は設計も工事もできない筈なのに、「内容について承知をしておりません。」とは・・・・偽証ではないか?
(1998年から、9年の時を経過して、2007年4月11日・民主党原口一博氏が再質問している)


国防総省の97年運用構想
には、「1966年の調査に基づき、提案されている滑走路の方向は7/25とすべきである(新たな調査が要求される)。」と記されている。66年の海兵隊の飛行場計画図とぴったり一致している。この方位の踏襲から、辺野古に飛行場を作ることを米軍は66年以来、97年まで30年余も新設構想をあたため続けていたことが分かる。

そして、2006年5月1日、軍港もセットにして滑走路2本の軍事空港に合意した。

●飛行場、軍港、装弾場のパッケージ

97年運用構想にある図(右)には、飛行場の右下には桟橋が描かれている。「運用構想」の翻訳文では、「貨物船の施設が必要であり、トラック約00台の積み下ろしのためにドックを設置しなければならない」とも記されている。1966の軍港計画を引き継ぎつつ、現在の那覇軍港並みの軍港機能を求めているのだ。

97年運用構想にある図(右)には、飛行場の右下には桟橋が描かれている。「運用構想」の翻訳文では、「貨物船の施設が必要であり、トラック約00台の積み下ろしのためにドックを設置しなければならない」とも記されている。1966の軍港計画を引き継ぎつつ、現在の那覇軍港並みの軍港機能を求めているのだ。
図の拡大は左クリック→

飛行場の左下に突き出してCALAと書かれた離れ島が求められている。CALACombat Aircraft Loading Areaの略で、「戦闘機装弾場」と訳されている。飛行機に銃弾や爆弾を積み込む施設で、97年運用構想によれば「人が所在するどの建物からも1250フィート(約375m)離れてなければいけない」という。

市街地のど真ん中にある普天間飛行場にはこの
CALAがないので、攻撃ヘリコプターは嘉手納基地で装弾して演習に出かけている。辺野古に海上基地を作ると、嘉手納基地まで遠くなるので、CALA・戦闘機装弾場を海上基地に設ける必要がある、97年運用構想に明記されている。

このように、米軍が欲しいのは
  滑走路だけでなく、
  新たに軍港、
  戦闘機装弾場を加えるという3点セットである。


辺野古に海上基地が完成すると、
実弾を積んだヘリやオスプレイなどの飛行機が、
島を横断して久米島沖の実弾射撃演習場に飛ぶことになる。

●政治の「表の動き」の経過を追ってみよう

先に、米軍の文書に記されていた辺野古海上基地計画を検証した。

日米両政府は、以上に示して本音を隠して、「普天間の返還は、沖縄県民の要求だから返還し、代わりの飛行場を辺野古に作る」との説明に終始している。

その「表の動き」の経過を見ておこう。

最後に、米軍の要求を受けた形状に落ち着く・・

●1997年日本政府が示した1500m計画

1997年12月21日の名護市民投票に向けて、日本政府・防衛施設庁は名護市民向けに、「海上基地は安全だ」という趣旨を書いたパンフレットを全戸に配布した。

そのパンフには、長さ1500m、横幅700mほどの沖合い案、リーフ内案の二つが示されていた。沖合い案は、大きな弁当箱を繋いで、太平洋に浮かべるという技術的に?だらけの案であった。

市民投票で海上基地を拒否されて後も、執拗に計画の実施に向けて政治的な工作を行い、埋め立て案を押し付けてきた。

●2002年7月 辺野古沖に閣議決定

「海上基地反対」、「陸上に軍民共用空港」、「15年使用期限」を公約にして1998年11月に大田昌秀氏を破って当選した稲嶺惠一知事は、1999年、「埋め立てたら陸地になる」という妙な理屈で埋立案を受け入れ、2002年7月に辺野古沖の軍事空港を閣議決定した。

この案を実現するための地質を調べるボーリング調査は、市民的不服従運動、非暴力直接行動によって廃案にされた。

2002年7月の閣議決定以前に、

米国のゼネコン・ベクテル社は右のような計画図を作っていた。

1998年の図である。滑走路に加えて大浦湾側には、軍港も描かれている。これがキャンプシュワブをまたぐL字型案の下敷きになったとも推測できるのではないか?この図は、SKさんが重たいメールで送ってくれたものです。ありがとうSKさん。

右の図はネット上、初公開です。
拡大は左クリックで。

●2005年10月L型の沿岸案に

2005年9月2日、日本政府は辺野古海上のボーリング用ヤグラを撤去した。

10月29日、キャンプシュワブをまたぐL字型案に日米両政府が合意した、と発表した。(右下の図)

深い大浦湾に軍港を作ることを隠して、合意文書では「燃料補給用の桟橋及び関連施設」と表現している。

図面に見ると、大浦湾に面した岸壁の長さは800mほどもある。三角に切れた長さが300m程度、三角から陸地への岸壁が300m程度になっている。合計で約1400mの岸壁長になり、那覇軍港の約1600mとほぼ同じになる。大浦湾は水深20m以上あるので原子力空母も接岸できる。 


97年運用構想で滑走路の長さは1300m、オーバーランを入れて1500mであったのが、今回の協議で米国側は1800mに延ばすように要求し、日本政府は同意した。この延長はCALAを配置するために安全距離を確保するためと考えられる。合意文書で、「必要なその他の航空支援活動」とあるのが戦闘機装弾場を意味しているだろう。


1966年海兵隊+海軍計画
1997年国防総省構想
2005年合意案そして
2006年V字形案
は形が違うが、滑走路、軍港、戦闘機装弾場という3点セットの同じ機能をもっている。

●2006年5月・・あっと驚く・・・V字型案

この沿岸案には、当時の稲嶺惠1沖縄県知事も首を縦に振らなかったが、日本政府は、2本の滑走路をV字型につくる案を出してきた。集落の上空を飛行機が飛ばないとの説明で、島袋名護市長の同意を強引にとりつけ、2006年5月1日に日米間で合意した

●1966年計画と2006年V字形合意の類似、そしてグアムのV字形飛行場

1966年1月の米海兵隊案を左に再掲する。

この米海兵隊案から、1998年のベクテル社の図面を間に挟んで、2006年5月1日「V字形案」に日米両政府は同意した。
滑走路が2本となったことは、1966年1月の米海兵隊案に先祖がえりしたともいえる。軍事空港として、二本の滑走路が都合が良いに決まっている。(嘉手納も二本の滑走路があります。)

名護市民投票での「海上基地建設反対」という民意を無視して進めているのがこのV字案である。これを作らせず、ジュゴンが棲むサンゴ礁の海を子孫に引き継ぐために住民は非暴力直接行動で日米両政府に計画の撤回を求めているのです。辺野古の「命を守る会」を中心にして。


額賀防衛庁長官(当時)が、ある朝、集落の上空の飛行を避けるためにV字型の滑走路を思いつき、アメリカ政府に受け入れさせたと報道されているが眉唾ものである。なぜならば、V字型の滑走路を備えた米軍のアプラ軍港がグアムの西海岸に実在するからだ。

Google
のマップ機能で見ることができ、クローズアップするとフリゲート艦らしき軍艦や、潜水艦まで識別できる。(この衛星写真は、辺野古のV字型沿岸案と見比べやすいように、画像を上下にミラー処理した。)

この衛星写真を添えた記事を、某誌2006年9月号に掲載したところ、Googleマップで、グアムの詳細が表示されなくなった。なぜだろう?

V字形案を額賀防衛庁長官が米国側に提案したことが事実なら、
米国側は、二本目の滑走路が思いもよらずにプレゼントされ、
さぞかしニンマリしたことだろう。

★このように、1966年の海兵隊辺野古飛行場計画から、
 今日のV字形案まで、矛盾なく計画は繋がっている。

★普天間は危険だから沖縄に返し、
 その代わりに辺野古に作るという日米両政府の説明は逆だ。

★かねてからの計画である辺野古海上基地を完成し、
 要らなくなる普天間は返す、という米軍基地基地の強化計画なのだ。

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